ある夏の夜、家族でクワガタ探しに出かけました。
向かったのは、山の上にある大きな公園。時計はすでに夜の9時を過ぎていて、公園のなかはほとんど真っ暗。iPhoneのライトでは足元さえおぼつかないほどの闇のなか──
頼りになるのは、夫が持っていた釣り用のヘッドライトだけ。
家族で手をつなぎながら、ゆっくりと公園の坂道をのぼっていきました。
虫の声だけが響く静かな夜。
クワガタには出会えなかったけれど、その代わりに、忘れられない出会いがありました。
木の幹にじっとしがみつく、一匹のセミの幼虫。
よく見ると、背中がほんの少し割れていて──
これは、いままさに羽化がはじまるところだったのです。
静かに始まる、命の変身
最初に気づいたのは、息子でした。
「これ、セミの幼虫じゃない?」と指差した先、木の幹にしがみつく小さな影。
ライトを近づけてみて、息をのむ──
それは、まさに羽化の真っ最中でした。
茶色い抜け殻から、白くてやわらかそうな体が、ほとんど出ています。
まだ翅(はね)は小さく、体の先をふるわせながら、必死に自分の抜け殻につかまっていました。
──もう、ここまで出てきている。
真っ暗な夜の公園で出会った、命の一瞬。
セミは、ただ風に吹かれながら、ひたむきにそのときを過ごしていました。
何もしゃべらず、何も求めず、ただ静かに、静かに。
その姿に、私たち家族も言葉を失い、ただそばで見守るしかありませんでした。
写真とともに──夜の羽化のようす

幹の中腹、葉の陰にしっかりとしがみついていたのは、すでに抜け殻からほとんど体を出したセミの姿でした。
ライトをあてると、翅(はね)はまだふにゃりとしていて、半透明に光っています。
ときおりわずかに体をふるわせながら、何かをこらえているようにも見えました。
「がんばって……落ちないで……」
思わずそんな声が出るほど、いまにもふらりと落ちてしまいそうな頼りなさ。
でもその姿は、どこか神々しく、こちらが背筋を伸ばしたくなるような気持ちにさせられます。
もう一匹のセミ──のびていく翅
そのすぐ近くには、もう少し羽化が進んだセミもいました。
翅はすでに長く伸びてきて、透き通るような水色がかった白。
このあとの色づきと硬化をじっと待っているように、動かず静かにたたずんでいます

翅の筋が透けて見えるほど繊細で、それでいてとても力強い。
どちらのセミも、まるで夜という静けさに守られながら、新しい命のかたちへと変わっていっているようでした。
翌朝、あの場所へ
朝8時ごろ、もう一度あの公園を訪ねました。
すでに太陽は高く、木々のあいだからまぶしい光が差し込んでいます。
昨夜と同じ木の幹に目をやると──
そこには、あのセミの抜け殻が、しっかりとそのままの姿で残っていました。

公園のあちこちで、セミの羽化が行われた気配はありました。
地面には小さな穴がいくつもあって、幹の近くには転がった抜け殻も。
でも、不思議なことに──木にしがみついたままの抜け殻は、ほとんど見当たりませんでした。
きっと、飛び立つときに落ちてしまったのかもしれません。
それでも、あのセミの抜け殻だけは、ちゃんと木につかまっていた。
まるで「ちゃんと飛び立ったよ」と、ひとことだけ残していってくれたようで──
胸の奥が、すーっと澄んでいくような気持ちになりました。
セミの羽化を絵本でも──親子で味わいたい2冊
あの夜見た、セミの羽化。
その神秘的な瞬間や、翌朝の感動を、今度は絵本のなかでふり返ってみました。
うまれたよ!セミ|小杉みのり・著/新開考・写真
📘 対象年齢:4歳ごろから
📷 写真絵本・自然科学/「よみきかせ いきもの しゃいんえほん」シリーズ15
虫の世界を見つめてきた写真家・新開考さんのカメラがとらえた、セミの孵化と成長のリアルな姿。
羽化の瞬間はもちろん、土の中でのくらし、孵化後の翅が広がるまでの細やかなようすまで、まるで実際に見てきたような感覚で読み進められます。
文章はやさしく、写真は本格的。
今回のように実際にセミの羽化を見たあとに読むと、体験と知識がぴたりと結びついて、子どもも「これ、見たやつだ!」と大興奮でした。

セミくん いよいよこんやです|工藤ノリコ
📘 対象年齢:3歳ごろから
🖋 ストーリー絵本・命の営み/親しみやすいキャラクター
こちらは、ちょっとユーモラスでやさしい視点の絵本。
主人公のセミくんが「いよいよこんや、地上に出るぞ…」と、土の中から地上へ出てくる“その瞬間のドキドキ”を主観で描いています。
セミが感じる不安や、がんばる姿に、子どもたちは思わず感情移入。
今回、羽化を見た息子も、「あのセミくんも、こんな気持ちだったのかな」と思いを重ねていました。
羽化そのもののリアルさではなく、命が一歩踏み出す“勇気”や“誇らしさ”に心を寄せられる一冊です。
おわりに──一晩だけの物語、でも忘れない
クワガタを探しに出かけた夏の夜。
偶然出会ったセミの羽化は、想像していた以上に神秘的で、静かで、そして強い瞬間でした。
最後まで見届けることはできなかったけれど──
翌朝、あの木に残っていた抜け殻と、公園じゅうに響くセミたちの鳴き声が、
「ちゃんと飛び立ったよ」と、そっと教えてくれた気がします。
ほんの一晩の出来事だったけれど、
あの光景と、子どもと一緒に見上げた気持ちは、きっとずっと忘れません。
セミの命の営みにそっと触れた夏の思い出。
そんな体験を、絵本とともに心にとどめておきたい──
そう思える一夜になりました。
🌱 セミの羽化には、およそ4〜6時間ほどかかるそうです。
暗くなったころからそっと見守れば、きっと忘れられない夏の一場面に出会えるはず。
この夏休み、家族で“夜の命のドラマ”を見に行ってみませんか?